『夢』(ゆめ、英題:Dreams)は、1990年に公開された、黒澤明監督による日本とアメリカの合作映画である。「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。黒澤明自身が見た夢を元にしている。各エピソードの前に、「こんな夢を見た」という文字が表示されるが、これは夏目漱石の『夢十夜』における各挿話の書き出しと同じである。
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Dreams (1990) / 夢のあらすじ
日照り雨
江戸時代を思わせる屋敷の門前で、幼い私は突然の日照り雨にあう。畑仕事帰りの母から冗談交じりに「外へ出ていってはいけない。こんな日には狐の嫁入りがある。見たりすると怖いことになる」と言われるが、誘われるように林へ行くと道の向こうから花嫁行列がやってくる。
しかし、木陰で見とれている私の存在を次第次第に意識するそぶりを見せつけてくる行列に、居たたまれなくなって自宅に逃げ帰ってしまう。帰り着いた屋敷は一転して冷たく閉ざされ、門前に立つ母は武家の女然として短刀を渡し、自ら始末を付けるよう告げ、引っ込んでしまう。
閉め出された私はさまよう内に、丘の上から雨上がりの空を見上げるのだった。
桃畑
屋敷の広間で姉の雛祭りが行われている。遊びに来た姉の友人たちにお団子を運ぶが、6人来たはずなのに5人しかいない。姉におまえの勘違いだと笑われ、華やかな笑い声に戸惑って台所に逃げ出すと、裏口に同じ年頃の少女が立っている。
逃げる少女を追って裏山の桃畑跡に辿りつくと、そこには大勢の男女がひな壇のように居並んでいた。彼らは木霊で、桃の木を切ってしまったお前の家にはもう居られないと告げ、責める。
しかし、桃の花を見られなくなったのが哀しいと告げる私に態度を和らげ、最後の舞を披露してどこかへ去って行く。後には桃の若木が一本だけ、花を咲かせていた。
雪あらし
大学生の私は、吹雪の雪山で遭難しかけていた。3人の山仲間と共に3日間歩き続けたあげく、疲労困憊して崩れ込んだまま幻覚に襲われる。
朦朧とした意識の中、美しい雪女が現れ、誘うように問いかけてくる。「雪は暖かい、氷は熱い」と囁かれ、薄衣を被せるように深い眠りへと沈められそうになるが、危ういところで正気に返り、仲間達と山荘を目指し歩き始める。
トンネル
敗戦後、ひとり復員した陸軍将校が部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かると、中から奇妙な犬が走り出てきて威嚇してきた。
追われるように駆け込んだトンネルの暗闇で私は、戦死させてしまった小隊の亡霊と向き合うことになる。自らの覚悟を語り、彷徨うことの詮無さを説いて部下達を見送った私はトンネルを出るが、またあの犬が現れ、吠えかかってきた。
私はただ、戸惑うしか無かった。
鴉(からす)
中年になった私がゴッホのアルルの跳ね橋を見ていると、いつしか絵の中に入っていた。
彼はどこにいるのか。彼は「カラスのいる麦畑」にいた。苦悩するゴッホが自作の中を渡り歩く後を、私はついて行く…。
この章では、ショパンの「雨だれの前奏曲」が使用されている。また、台詞は英語とフランス語(日本語は字幕のみ)で演じられている。
赤冨士
大音響と紅蓮に染まった空の下、大勢の人々が逃げ惑っている。私は何があったのかわからない。足下では、疲れ切った女性と子供が座り込んで泣いている。
見上げると富士山が炎に包まれ、灼熱し赤く染まっている。原子力発電所の6基の原子炉が爆発したという。居合わせたスーツの男は、懺悔の言葉を残すと海に身を投げた。
やがて新技術で着色された、致死性の放射性物質が押し寄せる。私は赤い霧を必死に素手で払いのけ続けた…。
鬼哭(きこく)
霧が立ち込める溶岩荒野を歩いている私を、後ろから誰かがついてくる。見ると、1本角の鬼である。
世界は放射能汚染で荒野と化し、かつての動植物や人間は、おどろおどろしい姿に変わり果てていた。鬼の男もかつては人間で農業を営んでいたが、価格調整のため収穫物を捨てた事を悔やんでいた。
変わり果てた世界で何処へ行けばいいのか惑う私は、苦しみながら死ぬこともできない鬼に『オニニ、ナリタイノカ?』と問われ、ただ逃げ出すことしか出来なかった。
水車のある村
私は旅先で、静かな川が流れる水車の村に着く。壊れた水車を直している老人に出会い、この村人たちが近代技術を拒み自然を大切にしていると説かれ、興味を惹かれる。
話を聞いている内に、今日は葬儀があるという。しかしそれは、華やかな祝祭としてとり行われると告げられる。
戸惑う私の耳に、賑やかな音色と謡が聞こえてくる。村人は嘆き悲しむ代わりに、良い人生を最後まで送ったことを喜び祝い、棺を取り囲んで笑顔で行進するのであった。
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